国登録有形文化財

菊川赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫の歴史

レンガ造りの建物、いったいどの時代になんのために建てられたのだろう・・・
今の菊川市に残り続けるワケ(理由)とは
歴史の生き証人が今に伝える赤レンガ倉庫のヒストリー

1869年  (明治2年)

大政奉還と武士達が開拓した牧之原大茶園

慶応3年(1867年)、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還により駿府(今の静岡市)に隠居。後、明治2年(1869)の版籍奉還により家臣たちはその任務を解かれ職を失った。
そこで明治2年(1869年)、中條景昭(ちゅうじょうかげあき)を隊長とした約300人の士族が、新たな就業の場として、荒れ野原だった牧之原台地での茶畑の開墾を決断した。
これが後に日本一の大茶園地となる牧之原地域の本格的な開拓のはじまりとなった。

1880年(明治13年)

茶場の女工達

当時、牧之原で収穫された茶葉は海外輸出を担う横浜港の「茶場」に運ばれ、過酷な労働条件の中、輸出できる商品にするための火入れや着色が日本人の女工達によって行われていた。茶場には200〜300の炉が並び、鉄鍋に入った高熱の茶を手作業で攪拌するため夏場には卒倒者が続出した。
現在の牧之原市に生まれ、牧之原市の丸尾開墾地にある製茶場で製茶職工として働いていた原崎源作は22才で茶方助手として横浜へ赴いていた折に、この過酷な状況を目の当たりにし、茶の再製作業※1 を機械化する必要があると考えた。これは茶の再製機械発明の動機となり、後の茶産業に大きく影響することになる。

※1 茶葉に艶出しを施す着色と、茶葉を再乾燥させる火入れをおこないます。また、各産地の茶を合組(ブレンド)することも再製工程では行われていました。この工程を経て輸出できる茶が出来上がるのです。

1889年(明治22年)

東海道本線開通と堀之内駅

1889年(明治22年)に東海道本線が開通し堀之内駅(現在の菊川駅)が開業され、寒村だった菊川市の駅周辺はこの堀之内停車場の活況とともに急速に商業地へと発展した。

やがて牧之原などで収穫された茶葉は堀之内で加工(製茶)され、貨車で清水港に運ばれアメリカに向けて輸出されることになる。

1892年(明治25年)

原崎源作と"堀之内再製所"

1888年(明治21年)茶の直輸出を行う富士商会が設立され、本社を横浜においた。原崎は31才で富士商会の支配人となり、ここで再製茶機械の開発に取り組んでいく。

1889年(明治22年)に東海道本線が開通し堀之内駅(現在の菊川駅)が開業され、寒村だった菊川市の駅周辺はこの堀之内停車場の活況とともに急速に商業地へと発展した。

1892年(明治25年)原崎は丸尾文六、原崎勝太郎 3名と共同出資による三仲組合をつくり、堀之内に茶の再製工場を建設した。それが"堀之内再製所"である。

原崎の再生機械の発明により"生産地で製茶を完成させ、海外に向けて直接輸出する"という理想が今日の"お茶のまちきくがわ"をつくることになっていく。

1894年  (明治27年)

富士合資会社と赤レンガ倉庫

原崎は富士商会の支配人となる。
1894年(明治33年)富士商会は富士合資会社に解組され翌年には原崎源作、丸尾文六、原崎勝太郎 3名による三仲組合が設立した堀之内再製所を買収し、茶の再製・直輸出会社として再スタートした。

富士合資会社はお茶の再製機械を本格的に稼働させるためにこの地に工場を建て操業を行った。

その残された一棟が「赤レンガ倉庫」なのである。

1900年(明治33年)

横浜港から清水港へ

この年、清水港から茶の直輸出が始まると、牧之原から当時一帯で集められたお茶は富士合資会社をはじめとする輸出再製工場から完成した製茶として、横浜港ではなく清水港に向けて堀之内駅から旅立つようになった。
同年、富士合資会社は静岡に工場を新設し、翌年こちらを本店とし、堀之内工場の建物は徐々に取り壊されていった。
その後、赤レンガ倉庫は桜井薬局が買い取り、大正、昭和、平成へと移り、今に残ってきたのである。

2004年 (平成16年)

価値の再発見、取り壊されずに残った理由

およそ半世紀にわたり進められた「菊川駅南土地区画整理事業」を契機に、歴史的建築物が次々と取り壊される世相にあるなか、市民有志の強い願いにとって保存運動が起こった。それが今日のNPO法人まちいきである。

そして、TBS「噂の東京マガジン」で窮状を訴えたところ、大きな反響を得ることができた。
 

後日、近代の静岡茶の建築について調査研究をしている静岡県立大学客員准教授の二村悟博士(平成16年12月31日に静岡新聞紙面にて紹介。同社・宮崎氏取材)から、学術調査実施の連絡があり、9月19日に調査が行われた。

当日は、同氏が客員研究員を兼務する東京の工学院大学後藤治研究室から5名の学生が訪れ、赤レンガ倉庫の学術的な調査が行われた。

調査結果

専門家による調査により、建物に使用されたレンガは「焼過レンガ」と「赤色レンガ」という2種類のレンガを使用した建物であり、日本の西洋建築の中でも珍しく、煉瓦造りのものはほんの限られた期間で建造されたものだけに、残された建物は多くはなく大変貴重な建造物ということがわかった。
また、天井や床に残る遺構などから合組(茶葉のブレンド)をする合場(ごうば)であるということもわかった。

赤レンガ倉庫は「建造物としての価値」と、お茶のまち菊川のルーツとなる"製茶工場の歴史"を今に伝える「歴史の生き証人としての価値」を持つ希少な産業建築だったのである。

区画整理が完了

JR菊川駅前から100mほど商店街を南下したところに、先頃まで民家に覆い隠されるように建っていた赤レンガ倉庫が姿を見せるようになった。
現在「まちいき」ではこの赤レンガ倉庫を"菊川駅前のランドマーク"として大切に利用して頂けるよう維持管理を行なっている。

そして 現 在

生かし、繋いでいく活動を

こうして120年以上もの間、「お茶のまち菊川」をつくり、支え見守ってきた"生き証人 赤レンガ倉庫"を後世に繋いでいくために、現在では倉庫の歴史、蘭字、軽便鉄道(オット)などの常設展示を毎週日曜日に公開している。

レンガ造りの構造は音響効果がよく、落語演劇やコンサートなどのイベントにも適していることから、これまでにたくさんの人に利用していただき、後世に繋いでいく活動を行なっている。

建造物としての価値


2008年に行われた工学院大学 二村 悟博士の調査によって"建造物としても大変貴重なものである"ということがわかった。

明治20年代に原崎源作氏、丸尾文六氏らによって設立された富士製茶(旧 富士合資会社)の堀之内工場の一部として明治33年(1900年)に建築された建坪24坪2階建て煉瓦作りで屋根は奇棟瓦葺。明治期の製茶工場の遺構が残る建物として国有形文化財に指定されています。当時の様子が建物の至る所に残ります。

合組(ごうぐみ)とは

茶葉を火入れ乾燥後などのひととおりの製茶工程が終わったあとに行われる作業で消費者の好みや注文に応じて数種類のお茶を混合(ブレンド)する作業。

推測される装置

赤レンガ倉庫の6カ所の痕跡に、仮設的な柱を差し込み、その柱に溝をきって羽目板いをはめ込むことで、合組のための装置にしていたのではないかと考えられる。

2種類のレンガ

耐水性が強く強度の大きい"焼過煉瓦"と素焼きに近い質感となる"赤色レンガ"の両方を使用しています。赤レンガ倉庫を見ると2種類の色の違うレンガがはっきりと見てわかる。

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赤レンガ倉庫を動画で紹介

茶産業の歴史を背景に赤レンガ倉庫がなぜここに建っているのか、そして今に残っているのかを動画で紹介しています。

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